画家として、童話作家として多くの人に親しまれた東君平さんが肺炎のために亡くなったのは昭和61年12月3日だった。46歳・・・。

そのあまりにも呆気なく、あまりに早すぎた死の知らせに、いたずら好きの君平さんの冗談ではないかと 思った人も少なくなかった。けれどもそれは、いたずら でも冗談でもなかった。

少年のような目と心を持ち続けた君平さんは、もう帰っては来ない。 「忘れない」 という魔法を、わたしたちにかけたまま、君平さんは逝ってしまった。

西島三重子「東 君平物語」より

 

《少年の日々》
昭和15年1月9日に神戸で生まれた。父の信一郎氏は大きな病院の院長で、 君平さんはその6人兄弟の4番目として裕福な生活をすごした。
戦火により家を消失し、和歌山の親戚に疎開し、やがて終戦。昭和22年、 神戸に病院が再建され、名門雲中小学校に転校した。多感で好奇心の強い君平さんは、 戦後の神戸の街で我がもの顔で徘徊するアメリカ兵や、生きるために這い上がろうと する人々の姿を、のちに「くんぺい少年の四季」に描いている。
昭和28年。浜協中学に進学するが、父の死をきっかけに家が破産し、東一家は離散した。何不自由なく生活してきた少年には、それは辛い生活だった。
働きながら中学へ通い、鰹節工場の手伝い、蒔き割り、鶏糞の俵担ぎ、何でもやった。

 

《さまよう青春》
昭和30年。中学を卒業後、母や兄を頼って、家出同然に上京する。しかしあまりの貧しさにがっかりした。おまけに東京の流れの速さにもついていけず。
敗北感を味わう。熱海の写真屋で住み込みで働く。隣に住む尚美ちゃんの「お兄ちゃんは絵描きさんになるといいのに」の一言で、本格的に絵を描くよう になる。画材に苦労した君平さんの手法は、印画紙を保護するための黒い紙を使った切り絵だった。それを安全カミソリで切り抜いては、小さなスケッチブックに貼った。自分の将来を模索していた君平さんは、水を得た他魚のように、夢中で身の回りの情景を描き続けた。熱海時代は君平さんの原点となった時期であった。

 

《夢をおいかけて》
18歳になると、「絵描きになる」とうい夢をかかえて上京。築地の新聞販売店 で働きながら、中央大学付属高校の定時制、お茶の水美術学院にも通ったが続かず、その後、東中野の写真屋に住み込み、作品を作っては、出版社や新聞社に持ち込む。
昭和34年、仕事をもらえるようになり、中野区鷺ノ宮に友人と小さな部屋を借りた。明大付属中野高校の定時制に再入学。このころ母から画家・堀文子さんを紹介される。堀さんは君平さんの若い才能を絶賛し、仕事を紹介してくれた。

 

《白と黒の時代》
昭和37年、「漫画読本」で切り絵漫画家として本格デビューした。22歳だった。そしてその作品に心打たれた女性がいた。のちに夫人となる英子さんだ。
翌年、転校した盆進高校を卒業。谷内六郎氏の後押しで、新宿伊勢丹ギャラリーで 初めての個展「白と黒の世界」が開かれ、大評判となる。 そして12月21日結婚。
年が明けた昭和39年、英子さんと渡米し、6ヶ月のニューヨーク生活を経て、帰国。12月には始めての絵本「びりびり」出版。絵本や童話などの創作活動に取り組む。翌年、長期に渡って、フランス、オランダ、北欧をスケッチ旅行。犬年の昭和45年、松屋にて紙ねんどによる「101匹のわんちゃん大行進」開催。子どもたちの人気を博す。

 

《あたらしい道》
昭和48年から、ライフワークともいえる、毎日新聞の「おはよう童話」の連載が始まる。それを機に、仕事は絵よりも文章に比重がかかるようになる。
それからしばらくして、「週間文春」に「イラストライター廃業宣言」の広告を出し、世間を驚かす。
翌年には「詩とメルヘン」で「くんぺい魔法ばなし」の連載が始まる。昭和51年には甥の山口さんと娘の菜奈ちゃんと西表島を横断し、その奮闘ぶりを「山猫の島横断期」にまとめた。 続々と本が出版される中、「おはよう舎」設立。この年「毎日広告賞第一席」、昭和52年、「毎日新聞社・児童文学賞」、昭和53年、「詩とメルヘン賞」受賞。昭和53年・55年、アフリカを訪れ、翌年、「くんぺいごしちごアフリカえほん」を自費出版し、収益を全額アフリカへ送る。
昭和58年、君平さんは別荘を借りた小渕沢が気に入り、「いつか、ここに僕の美術館を建てられたらいいなぁ」と夢を持つ。その土地に後に「くんぺい童話館」が建つこととなる。

 

《消えない魔法》
昭和61年、家族旅行をした。ハワイ旅行、神戸旅行、スリランカ、モルジブetc。
何年分もの家族サービスをまとめて行ったような行動だった。
夏の終わりごろから、風邪っぽいと言っていたようだったが、精力的に仕事をこなし、「くんぺい美術館」の実現に、夢を膨らませていた。
昭和61年12月3日。君平さんは肺炎のために亡くなった。
永遠に消えない「魔法」を私たちにかけたまま、風のように、昭和という一つの時代を走り抜けていった。

   
 
 
東 英子(Eiko Higashi)

昭和38年に東君平と結婚、二女をもうける。君平の没後、平成元年に美術館くんぺい童話館を設立、自らが館長をつとめる。
植物に造詣が深く、童話館の庭で700種の草花を育てている。
著書に「くんぺい童話館物語」(河出出版)がある。
東 菜奈(Nana Higashi)

東君平、東英子との間に生まれた長女。
彼女のプロフィールはホームページから拝観することが出来る。
http://docca.net/nana/
   
 
 
やなせ たかし(Takashi Yanase)

東君平さんは天才である。それもこの世には珍しい妖精タイプの天才で、詩人仲原中也と同タイプである。
君平さんは天から与えられた才能を持つ詩人だった。
ぼくは彼の詩を読むといつでも感動した。君平さんにはかなわないと思った。現在の詩には 欠落しているこころよいリズムと何よりも感性が優れていた。 君平さんの詩と比較すると、俗世の詩はみんなダサい感じがする。へんに作りすぎている。こういう詩が天性の詩人なのだ。

辻 仁成(Hitonari Tsuji)

ぼくの母は、君平夫人の英子さんのいとこにあたる。君平さんの生き方を間近に見たことにで、自分にも何かの才能があるかもしれないと、思うようになったのだ。ぼくが混沌として悩んでいるときも、いつもぽろっと言うさりげない言葉の中で何かを伝えてくれる人だった。大切なのは一生の中で、どれだけ自分を地球にきざむことができるかということだ。芸術であろうが、愛であろうが、一生懸命やったことを残せと教えてくれた。ぼくはそのパワーだけは受けついでいるつもりである。

岸田 衿子(Eriko Kishida)

かれこれ二十数年前のことになる。色の絵本というシリーズが出ることになって、何人かの画家と童話作家が一ヶ所に集められた。一人だけ特別に子供っぽく見える絵描きが混じっていて、この人が君平さんだった。彼が「おはようどうわ」などを書きに小瀬温泉(軽井沢)によく行く話が出て、その延長で六里ヶ原の私の山小屋にも現れるようになった。とめども湧いてくる君平さんの独特な物語りと、黒でくっきり切りとった絵の組み合わせは、どちらをはずすわけにも行かない。すてきな完成した世界なのだ。

 
※本文はサンリオ「東君平の世界」から抽出しました。